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山形地方裁判所 昭和63年(行ウ)1号 判決

原告

佐藤照子

右訴訟代理人弁護士

佐藤欣哉

高橋敬一

縄田政幸

五十嵐幸弘

被告

山形労働基準監督署長

工藤幸宏

右指定代理人

黒津英明

外八名

主文

一  被告が昭和五八年一一月七日付けで原告に対してなした労働者災害補償保険法に基づく遺族補償給付を支給しない旨の処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

主文同旨

第二  事案の概要

本件は、バス運転業務中死亡したバス運転士佐藤岩治につき、被告が労働者災害補償保険法に基づく遺族補償給付を支給しない旨の処分をしたので、佐藤岩治の妻である原告がその取消しを求めた事案である。

一  争いのない事実

1  原告の夫佐藤岩治(昭和一四年一月一一日生まれ。以下「岩治」という。)は、山形市清住町所在の山形交通株式会社(以下「山形交通」または「会社」という。)山形営業所の運転士であった。

岩治は、昭和三六年七月二〇日、山形交通に入社し、昭和四三年四月一日、貸切バス運転の認定資格を取得し、そのころから定期路線バス運転と貸切バス運転とを兼ねた業務に従事しており、昭和五三年四月一日に運転士副班長に、同五六年四月一日に運転士班長に、それぞれ任命された。

岩治は、身長約一五九センチメートル、体重約六五キログラムで、本態性高血圧(一次性あるいは原発性高血圧ともいい、高血圧の原因が不明の場合をいう。)の基礎疾病があり、また、心肥大でもあった。そのため、継続的な健康管理をすべく医師の指導を受け、昭和五五年五月三〇日から昭和五八年六月二七日までの間、山形市の城西胃腸科内科医院において、本態性高血圧と慢性肝炎の投薬治療を行っていた。岩治の後記死亡日に最も近い昭和五八年六月二七日の測定では、岩治の血圧は、収縮期血圧(最大血圧。以下「最大」ということがある。)が一四四ミリメートル水銀柱(以下、単位は省略する。)、拡張期血圧(最小血圧。以下「最小」ということがある。)が九〇であった。

2  岩治は昭和五八年七月三日(以下「災害当日」ということがある。また、前日の七月二日を「災害前日」ということがある。)、乗客を乗せたバスを運転し、宮城県宮城郡宮城町大倉字上下所在の定義温泉定義館に到着し、乗客を降車させた後の同月三日午前一一時五〇分ころ、定義館前駐車場において、運転中のバス内で倒れ(以下「本件発症」という。)、翌四日午前零時〇三分ころ死亡した(当時四四歳。以下、本件発症によって死亡に至った事実全体を「本件災害」という。)。

3  死亡診断書に記載された岩治の死因は心筋梗塞であるが、死亡後の鑑定等により、岩治は、バルサルバ洞動脈瘤破裂が原因で死亡したものであると考えられる(但し、原告は、予備的に心筋梗塞が死因であるとの主張もしている。)。

バルサルバ洞は、大動脈起始部で、三個の大動脈弁とそれに対する大動脈壁で囲まれたポケット状の空間である。一つの大動脈には三個のバルサルバ洞がある。バルサルバ洞は、心臓の収縮期に左心室から大動脈に流れ出た血液が逆戻りしないようにする機能を有している。身体のすみずみまで血液を行き渡らせるためには、収縮期だけでなく拡張期にも高い動脈圧を保つことが必要であり、バルサルバ洞は、大動脈圧が極端に下降することを防いでいる。

バルサルバ洞動脈瘤の成因の大部分は、先天性のものである。すなわち、バルサルバ洞のある部分が生まれつき弱く(胎生期に心臓が発生するとき、左右の円錐部隆起が癒合して心室中隔からバルサルバ洞に至る部分が形成されるが、そのときの癒合が不完全であることが、バルサルバ洞を弱くする原因と考えられている。)、正常の血圧でも自然にふくらんでくる。こうして生じたバルサルバ洞動脈瘤は、出生後成長するにつれ心腔内(右心室ないし右心房)に突出するが、血圧に耐えられなくなるとやがて破裂する。

破裂していないバルサルバ洞動脈瘤の約七割には症状がないが、部位によっては圧迫症状(右室流出路狭窄や刺激伝導系圧迫による不整脈など。ときに冠動脈を圧迫することもある。)が生ずることがある。また、破裂の前駆症状がないことがバルサルバ洞動脈瘤の特徴のひとつである。

4  原告は、昭和五八年八月四日、被告に対し、岩治の死亡は業務上の事由によるものであるとして、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)一二条の八第一項に基づく遺族補償給付(以下「労災給付」という。)の支給を請求した。

これに対し、被告は、昭和五八年一一月七日、労災給付を支給しない旨の処分(以下「本件処分」という。)をした。その理由は、「『心筋梗塞』による死亡は、その傷病名だけにこだわることなく被災者がもっていた循環器系の基礎疾病や体質的素因に基づき発症したものであり、また、それ等を著しく増悪せしめるほどの過労や特に強度の精神的肉体的負担を生ずる業務上の突発的または異常な災害等の事実が発症前にあったものと思われず、たまたま業務遂行中に発生したにすぎず、私的疾病に起因する業務外の死亡と思料する」というものであった。

5  原告は、昭和五八年一二月一五日、山形労働者災害補償保険審査官に対し、審査請求をしたが、昭和五九年九月二八日右審査請求棄却決定がなされ、更に、同年一一月二八日、労働保険審査会に対し、再審査請求をしたが、昭和六二年一一月一一日、右再審査請求棄却の裁決がされた。

二  争点

本件の争点は、岩治の死亡が業務上の疾病によるものか否か(業務起因性の有無)という点である。

1  争点に関する原告の主張

(一) 業務起因性に関する原告の考え方

(1) 労災補償制度は、労働者が人たるに値する生活を営むため必要を充たすべき労働条件の最低基準を定立することを目的に、負傷、死亡又は疾病が「業務上」であることのみを要件に療養補償・遺族補償・傷害補償などを行う法的救済制度であり、優越的地位にある使用者とそれに従属する労働者という資本性生産の下で、社会法則的に発生する災害の犠牲者である労働者とその家族の生活を成り立たせることを目的とする制度である。対等な市民相互間における不法行為による損害賠償制度が損害の公平な分担を目的とするのと異なり、労災補償制度は、労働者が人たるに値する生活を営むため必要を充たすべき労働条件の最低基準を定立することを目的とするから、不法行為による損害賠償制度の要件である相当因果関係が必要であるとする合理的根拠はなく、「業務上」とは、相当因果関係よりも広く、業務と負傷・死亡又は疾病との間の合理的関連性があることを意味するというべきである。民法上の損害賠償制度において「困リテ」の文言が用いられているのに、労災補償制度においてこのような文言がないことも、後者において相当因果関係を必要としないことの現われである。

したがって、労災保険法一条の「業務上の事由」とは、業務と労働者の死亡との間に合理的関連があることをいい、当該業務に従事したために基礎疾患を悪化させ死亡に至ったことが推定されれば足りると解すべきである。

合理的関連性の有無は、当該労働者の負傷・死亡又は疾病について労働者保護の見地から労災補償の法的救済を与えることが合理的か否かの実質判断から合目的的に総合判断されなければならない。

(2) 仮に業務上の疾病の認定について相当因果関係説を前提にする場合でも、業務上外の認定は、労災補償制度の趣旨に沿って行われるべきであるから、災害が被災害者の既往の素因もしくは基礎疾病又は既存の疾病が条件又は原因となって発生したと認められても、業務的要因がこれらと共働原因となり、当該傷病等が発生し、又は既存疾病が急激に増悪し、かつ、その間に相当程度の因果関係が認められる限り、当該疾病は業務上のものと認定されるべきである。

すなわち、本件における岩治の死亡と業務との間に相当因果関係を要するとしても、業務遂行を唯一の原因として死亡したとする必要はなく、既存の疾病が原因となって死亡した場合でも、業務の遂行が基礎疾病を誘発又は増悪させて死亡時期を早めるなど、それが基礎疾病と共働原因となって死亡の結果を招いたと認められる場合には、右死亡は、業務上の死亡であると解すべきである。

労働者が長期間に渡り過重な労働に従事している場合には、労災給付のために画一的基準を設けること自体根拠がなく、過重負荷の有無は、個別的に判断されるべきである。また、発病原因の究明が困難な疾病について厳格な相当因果関係を要求し、「業務遂行中の突発的なあるいはその発生状態を時間的場所的に明確にしうる出来事等の災害」事実と疾病との間に、その医学的に明確な証明を要求するのは、多くの職業病を労災補償の外に追いやることを意味し、労災補償制度の目的に反する。

(3) 被告が業務上外認定の根拠とする昭和六二年一〇月二六日付通達は、行政機関が簡易迅速な行政運営上の便宜のために定めた内部基準であり、同基準の要件を満たせば原則として業務上の疾病となるが、その基準を満たさないものが業務外疾病になるというものではない。同基準には法的拘束力はなく、裁判所を拘束するものでもない。

(二) 岩治の死因について

(1) 岩治の死因は、バルサルバ洞動脈瘤破裂であり、右動脈瘤の発生自体は先天性のものと考えられるが、ストレスにより血圧が上昇することによって、バルサルバ洞動脈瘤は進展して破裂しやすくなり、破裂の時期が早まって破裂する。岩治においては、後に述べるような過重労働による肉体的・精神的ストレスが血圧に影響し、バルサルバ洞動脈瘤が破裂したのであって、業務上の死亡であるというべきである。

バルサルバ洞動脈瘤が破裂するのは、血圧により洞の一部が次第にふくらみ、血圧に耐えられなくなるためである。正常の血圧でもふくらむとしても、瘤にかかる血圧が高ければ高い程、バルサルバ洞動脈瘤を早く進行させて破裂させることは否定できない。バルサルバ洞動脈瘤の破裂が安静時に生じた例があることが、労作時に発生しやすいことを否定するものでもない。

(2) 岩治の死因として、心筋梗塞とその続発症としての中隔穿孔の可能性もある。心筋梗塞とは、心臓の冠状動脈閉塞によって発症した心筋の壊死の状態をいい、冠状動脈のアテローム変性が進行し、血液の塊が血栓を形成して血流が途絶し、心筋細胞が壊死に至るものである。急性心筋梗塞の合併症として、左心室と右心室との境の心筋の壁に心筋梗塞が生じ、その部分が破れて孔が開いてしまうものを心室中隔穿孔という。過労と心筋梗塞の発症との因果関係は、従前から肯定されているところである。

(三) 岩治の健康状態について

岩治は、高血圧と慢性肝炎の投薬治療を受けていたが、昭和五八年に入ってからは血圧の状態もよくコントロールされ、一般状態も良好であり、昭和五八年六月二七日の診察の際にも特に問題はなかった。

世界保健機構による高血圧の診断基準によると、最大血圧一六〇以上、最小血圧九五以上の両方の条件がある場合を高血圧、最大血圧一四〇未満、最小血圧九〇未満の両方の条件がある場合を正常血圧といい、両者の間を境界域高血圧という。岩治の血圧は、本件発症の一週間前(昭和五八年六月二七日)の定期検診では、最大血圧が一四四、最小血圧が九〇であり、境界域高血圧であった。昭和五八年五月七日の定期検診では、最大血圧一三八、最小血圧八四であり、正常血圧であった。これは、岩治の高血圧の管理が適切になされており、発症が回避され安定した状態にあったことを示している。

(四) 山形交通の労働強化の状況

山形交通は、昭和五八年(一九八三年)三月期決算において赤字が見込まれたため、同年度を初年度とする経営改善三年計画を策定し、同年四月に労働協約を改訂したが、これは労働強化を目的とするものであった。

この改訂を昭和四四年(一九六九年)四月及び昭和五六年(一九八一年)四月の改訂と比較すると別紙一記載のとおりである。四四年協約と五六年協約とを比較すると付帯労働時間が三分間増加しているが、五八年協約では付帯労働時間が一〇分間削減され、所定乗務時間が一〇分間延長されている。しかし、山形交通の経営改善計画における車両の使用年数の延長等によって、運転手は、老朽化した車両の運転を強いられ、付帯労働時間内に行われる仕業点検などはより慎重に行わざるを得なくなっている。また、五八年協約から乗合バスがすべてワンマンバスになり、運転手には、大型車を交通頻繁な道路で安全に運行するために通常の運転手以上の注意義務が要求されるのみならず、バス停案内テープの操作、アナウンス、乗降客の有無や安全の確認、運賃支払いの確認、両替機の操作等を各停留所毎に繰り返すという業務が加えられた。営業所毎の平均乗務時間も五六年協約が五時間一五分以内であるのに対し、五八年協約では五時間四〇分となり、この結果、山形営業所においては、平均乗務時間も平均拘束時間も延長されている。貸切バス部門では、五八年協約において、それまでなかった「実走行粁五〇〇キロメートル」が新たに設けられた。

右のような労働強化によるコスト削減のほか、山形交通は、売上高の増加のため、運転手を含めた社員に、回数券、健康寝具、旅行企画の販売をさせていた。

(五) 岩治の勤務実態について

(1) バス運転士の勤務について

岩治をはじめとするバス運転士は、安全を図りながら、運行時間を守って運転しなければならず、精神的緊張による慢性的なストレス状態にある。

運転労働には騒音や振動が伴い、運転中の身体的、精神的緊張を高め、疲労を増幅させるところ、山形交通では赤字解消の方策として車両等の耐用年数を延長してコスト削減を企図していたが、これは老朽化した車両での運転を意味し、そのような車両では、騒音や振動も通常以上に発生し、運転手の負担を増加させる。

貸切バス運行の際は、事前に運転手が運行経路を確認するが、翌日の運行が前日の二〇時か二一時にならないと分からない場合があり、コースの確認が不十分のままで出発することもある。そのような場合は、通常以上に緊張を強いられることになる。

(2) 岩治の一般的な勤務状態について

岩治は、山形交通において、運転士及び運転士班長として、①点呼、点視、洗車、清掃、給油、発車準備、回送、精算その他、②バスダイヤ・貸切バス運行スケジュールに合わせたバス乗務運転、客の乗降誘導・運賃収受指示、貸切バス運行経路の確認作業その他、③班長会議への出席、班員への会社の方針の伝達指導、班員の日常的指導、班員の状況掌握及び会社への報告、④バス回数券等の販売活動等の業務に従事していた。

岩治の勤務は、路線バス勤務と貸切バス勤務とが組合わされており、不規則な労働時間となっている。これが睡眠や食事の時刻、ひいては生活時間全体を不規則なものとし、家庭生活でのストレスが増加するのみならず、休養が十分とれなかった。

岩治には、長時間の拘束時間の勤務が多く、平均拘束時間だけでは把握できない疲労の蓄積があった。昭和五七年七月から五八年六月までにおいて、約四五パーセントの労働日が一〇時間以上の拘束時間となっている。特に、本件災害の前月である昭和五八年五月の勤務は、一二時間以上の拘束時間の勤務が五六パーセントに達していた。そして、同年五月三一日から六月一〇日まで連続一一日間の勤務であり、多少の休養では疲労の回復が困難であった。右一年間の総拘束時間は、三〇一一時間に達している。

(3) 岩治の班長業務について

班長は、運転士としての職務のほか、七名の班員に対し、会社の方針に従った指導をし、また、会社に対し、班員の状況を報告するという任務があり、月一回の班長会議に出席し、班員にその報告をするなどしていた。班長は、会社の方針を具体的に各運転士に伝達して実行を図り、個々の運転士からの不満に対応したり、これを上部に伝達したりする、精神的に非常に疲れる仕事であった。

この班長業務も前記(四)の山形交通の労働強化や本来業務外の物品販売の強化によってストレスの多いものとなった。すなわち、班別の個人別出勤率、乗合収入、無事故走行粁が一覧表として印刷配布されるほか、物品販売等についても班同士の競争、比較が行われ、班長の精神的負担を重いものにしたのである。

(4) 岩治の月平均労働時間等

昭和五八年における山形交通のバス運転手の月労働日数の平均値は24.06日、月労働時間数の平均値は一六二時間二七分、月残業時間数の平均値は14.2時間、月休日労働時間数の平均値は5.7時間であるが、岩治については、それぞれ25.16日、一七〇時間三五分、28.3時間、13.5時間である(岩治については、同年上半期の平均値である。)。これによると、岩治は、山形交通における平均的バス運転手より、月一日以上過重に労働し、一労働日で三〇分以上加重に残業をしていることが明らかである。また、岩治は、平均的バス運転手と異なり、班長としての職務も行っており、労働密度が更に高かったものである。

(5) 岩治の発症前一か月の勤務実態

岩治は、昭和五八年五月三一日から六月一〇日まで一一日間の連続勤務であった。この五月三一日から災害当日(七月三日)までは三四日間あり、休日数は六日間である。就労日の拘束時間は、五月三一日から七月二日までの一日当たりの平均で一〇時間四〇分である。勤務協定によれば、乗合バス乗務員の所定拘束時間(一七条)が八時間四〇分、貸切バス乗務員のそれ(二五条)が九時間一〇分であり、岩治の場合、いずれをも上回っている。これをまとめると別紙二記載のとおりである。

なお、岩治の勤務実態を明らかにするためには、労働時間ではなく、拘束時間を検討すべきである。なぜなら、山形交通がいう労働時間は、計算上のハンドル時間に付帯労働時間(一律一時間四三分)を加えて計算したものであり、賃金計算をするための基礎時間というべきであるが、岩治の場合、拘束時間内は会社の指揮下にあり、班長という地位に伴う各種の仕事や、客との対応・進路の確認作業等も行っており、岩治の精神的・肉体的ストレスの有無の判断材料としては、拘束時間が重要な意味をもつというべきだからである。岩治は、この拘束時間以外にも班長職や、本来の業務外の物品販売等を行っていたことも多いのである。そして、このような過酷な勤務実態は、以前から恒常的に続いており、勤務時間が不規則で身体的リズムを作れなかったことにも留意すべきである。

(6) 岩治の発症前一週間の勤務実態

岩治の災害当日までの一週間の就労状態は、別紙三記載のとおりであり、前記(4)の上半期の労働時間等の平均値と同水準である。昭和五八年六月二七日から災害当日までは、その勤務の影響で、家庭が休息・慰安の場所になっておらず、単に睡眠をとる場所でしかなく、しかもその睡眠時間は、平均的に短いものであった。

(7) 岩治の災害当日の勤務状態

災害当日である昭和五八年七月三日は日曜日で公休日であったが、岩治は前日に休日勤務の業務命令を受けて業務に従事したものであり、七日間連続の勤務となった。

岩治は、同月三日午前四時ころ自宅を出て、同一〇分ころ山形交通山形営業所に到着した。これは同年五月三一日以降に限っても、最も早い出勤となっている。同年七月三日の業務は、空の回送バスで宮城県桃生郡桃生町「おとこざわ呉服店」まで行き、そこで客を乗せるというものであったが、この出勤命令の内容は、仙台営業所管轄の顧客に関するものであり、岩治にとっては不案内の場所でもあったため、岩治は、前夜も地図を見て場所の確認をした。

岩治は、バスガイドの長岡智子(以下「智子」という。)と午前五時一〇分ころ同営業所を出発した。乗務したバスは、定期バスとして使用されていたもので、カラオケ設備も、パワーステアリング機能もないものであった。岩治は、笹谷街道を通り、東北自動車道を北進し、宮城県黒川郡の大和インターで高速道路を降り、松島町を経て国道四五号線に入った。

災害当日の気温は、前日までと比較して最高気温で七度から八度低く、最低気温で一度から二度低いものであり、七月としては非常に肌寒かった。

岩治は、矢本町矢本穴尻で、二人が死亡、一人が重傷を負うという交通事故の現場に遭遇し、約四〇分程足止めされた。岩治は、バスを降りて事故現場を目撃し、死亡した若い女性二人を見て相当のショックを受けた。岩治は、目的地へ時間までに到着しなければならず、この事故の目撃及びこれによる交通止めの時間的経過は、当該ルートが岩治にとって初めてのルートであることも考え合わせれば、岩治に多大なストレスを与えたというべきである。この事故は、これまでの過度の勤務実態による肉体的・精神的負担、疲労の蓄積と合わせ、発症の十分な契機になり得たものであった。

岩治は、「おとこざわ呉服店」に午前八時四〇分ころ到着し、乗客を乗せ、午前九時ころ出発し、午前一一時四〇分ころ、定義温泉に到着した後発症した。岩治は、前記事故の後、休息の時間もなく四時間連続した運転に従事し、肉体的ストレスも極まっていたものである。

(六) 岩治の死亡と業務起因性について

岩治は、その勤務により量的・質的に過度の身体的・肉体的努力を強いられていたにもかかわらず、自己の純粋余暇時間が睡眠時間に食い込む状況にあり、疲労を回復する時間がなく、本件の発症までに強度の疲労が蓄積した慢性疲労の状況にあった。また、災害当日まで七日間連続勤務であった。更に、災害当日の業務についても、本来公休日であったのに、突然の業務命令による出勤であったこと、早朝からの業務であり、午前四時ころには自宅を出たこと、目的地が未知の場所であり、前夜運行経路の確認作業をし、災害当日も運行スケジュールに間に合わせるため精神的緊張を余儀なくされたこと、乗務したバスが貸切専用バスでなく定期バス(路線バスの)代用であり、貸切専用バスに比べて粗末であって、運転もしづらかったこと、途中悲惨な交通死亡事故を目撃してショックを受け、また、その事故による交通渋滞にあったこと、災害当日は天候不順で、前日までの暑さに変わり、非常に肌寒い気候であったことなどから、発症当時、岩治は、強度の肉体的・精神的緊張負担状態にあったというべきである。

かくして、岩治には本態性高血圧の基礎疾病があったものの、その発症は回避され、安定した状態にあったが、過重な業務により高血圧症の基礎疾病が増悪しているところに、災害当日の緊張と負担、異常な出来事との遭遇による肉体的・精神的ストレスが加わり、基礎疾病が急激に増悪して急性の心臓死に至ったものである。岩治の死因は、バルサルバ洞動脈瘤破裂であり、これはストレスによってもたらされたものであるところ、岩治の業務内容及び災害当日の状況からして、右死因に対して岩治の業務が相対的に有力な原因となっており、岩治の業務と発症との間には相当因果関係があるというべきである。

2  争点に関する被告の主張

(一) 業務起因性に関する被告の考え方

労災給付支給の要件である業務上の疾病があるといえるためには、業務と疾病との間に相当因果関係がある場合でなければならない。また、労働者が罹患した疾病の業務起因性は明確かつ妥当なものでなければならず、一般的に業務上の諸種の状態が原因となって発病したことが医学的に明らかに認められることが必要である。

当該疾病の発症に業務以外の有害因子(遺伝的因子、環境的因子等)の存在がある場合の業務起因性の判断においては、当該業務上の有害因子が当該疾病発症に対して、他の原因と比較して相対的に有力な原因となっている関係が認められることを要する。業務が相対的に有力な原因であったといえるためには、当該業務が客観的に見ても危険性、有害性を持っているものでなければならない。特に、加齢や一般生活等における諸種の要因による自然的経過によって増悪し発症する動脈瘤等の脳血管疾患及び虚血性心疾患(以下、これらをあわせて「脳心疾患」ということがある。)の場合、業務自体が血管病変の形成に直接寄与するわけではなく、また、脳心疾患の基礎的病態を悪化させる右諸種の要因も直接業務と関連がないものであるから、当該業務が当該疾病について業務起因性があるというためには、当該業務が脳心疾患の基礎的病態をその自然的経過を超えて著しく増悪させたものと認められることが必要である。

業務及びその遂行は、それ自体常に精神的・肉体的緊張や負担を伴うものであり、業務の遂行が基礎疾病や既存疾患を増悪させて発症させたものとして業務起因性すなわち相当因果関係が肯定されるためには、特に過重な精神的・肉体的緊張又は負担をきたす業務やその遂行が必要であり、それらについては、当該者の通常の業務をはじめ、同僚労働者等との業務量や業務内容等との比較等により客観的に判断されるべきである。

(二) 業務上外の認定基準について

業務上疾病の範囲は、労働基準法施行規則三五条別表第一の二に定められており、更に、行政通達の形で「脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定基準について」(昭和六二年一〇月二六日付基発第六二〇号労働省労働基準局長通達)が示されている(以下、労働基準法施行規則三五条別表第一の二と昭和六二年通達を合わせて「認定基準」という。)。本件では、岩治の疾病が、労働基準法施行規則三五条別表第一の二第九号「その他業務に起因することの明らかな疾病」に該当するか否かが問題となるが、業務上の疾病として認められるためには、急激な血圧変動や血管収縮が業務によって引き起こされ、血管病変等が自然経過を超えて急激に著しく増悪し発症するに至ったものと客観的に認められることが必要である。

認定基準においては、「発生状態を時間的及び場所的に明確にし得る異常な出来事(業務に関連する出来事に限る。)に遭遇したこと」又は「日常業務に比較して、特に過重な業務に就労したこと」、これらの「過重負荷を受けてから症状の発現までの時間的経過が、医学上妥当なものであること」が認定の基準として示されている。したがって、発症前に過重負荷を受け、更に過重負荷を受けてから症状の出現までの時間的経過が医学上妥当とされるものについて業務起因性が認められる。

ここで、「異常な出来事」とは、極度の緊張、興奮、恐怖、驚愕等の強度の精神的負荷を引き起こす突発的又は予測困難な異常な事態、緊張に強度の身体的負荷を強いられる突発的又は予測困難な異常な事態、急激で著しい作業環境の変化の存在をいう。「日常業務に比較して、特に過重な業務」とは、通常の所定の業務内容等に比較して特に過重な精神的、身体的負荷を生じさせたと客観的に認められる業務をいう。その判断は、第一に発症直前から前日までの間の業務を、第二に発症前一週間の業務を基準とし、それ以前の業務については、発症前一週間以内における業務の過重性の付加要因として考慮する。更に、過重性の評価にあたっては、業務量のみならず、業務内容、作業環境等を総合して行う。「過重負荷」とは、脳血管疾患及び虚血性心疾患等の発症の基礎となる病態(血管病変等)をその自然的経過(加齢、一般生活等において生体が受ける通常の要因による血管病変等の経過など)を超えて急激に著しく増悪させ得ることが医学経験則上認められる負荷をいう。なお、昭和六二年通達は、本件発症当時存在した「中枢神経及び循環器系疾患(脳卒中、急性心臓死等)の業務上外認定基準について」(昭和三六年二月一三日付基発第一一六号労働省労働基準局長通達)の改正である。昭和三六年通達においては、「業務に関連する突発的又はその発生状態を時間的・場所的に明確にしうる出来事もしくは、特定の労働時間内に特に過激(質的に又は量的に)な業務に就労したことによる精神的又は肉体的負担」が発症前に認められるか否かを検討するものとされていたが、昭和六二年通達においても基本的考えは異ならず、急激な血圧変動や血管収縮を起こさせ、血管病変等をその自然経過を超えて急激に著しく増悪させる負荷として「過重負荷」を掲げ、医学経験則上評価される、業務による明らかな過重負荷を判断の要件とした。

(三) 岩治の死因及びその業務起因性について

岩治の死因は、バルサルバ洞動脈瘤破裂による急性心不全である(死亡診断書における死因が「心筋梗塞」とされているのは、遺族の関係者からその旨要請されたからである。なお、岩治の解剖は、遺族の了承が得られなかったため行われていない。)。

バルサルバ洞動脈瘤の破裂をもたらす直接的原因は、血圧である。血圧が瘤に絶えずかかっていることから、瘤が徐々に増大し、瘤壁が薄くなり、ついには破裂する。安静時においても、通常受けている血圧によって進行し、破裂は、安静時あるいは運動時にかかわらず、突然に起こるとされており、労作時のほうが安静時よりも破裂が起こりやすいということはない。また、外的ストレスが加わった場合、一般的に血圧は上がるが、血圧が高いほど破裂しやすいという医学的経験・知見は、現在のところない。

したがって、バルサルバ洞動脈瘤は、全く業務との関連がなく発生するもので、バス運転士という業務、あるいはそれによる精神的緊張から症状が進行するものではない。本件は、岩治がもともと有していたバルサルバ洞動脈瘤という基礎的病態が自然経過的に増悪し、それがたまたま勤務中に発症したものであり、業務に起因するものではないというべきである。

(四) 岩治の勤務実態と発症について

(1) 岩治の死亡を業務上の疾病によるものとするためには、発症が、業務のために著しく急速に発症増悪させられたことが必要である。すなわち、従来の業務に比較して、量的・質的に著しく異なる過激な業務の存在、発症直前の業務に関連する突発的かつ異常な災害等のできごとの発生により、強度の身体的努力や精神的緊張が生じたことが必要である。しかし、岩治の仕事は、普通のバス運転士としての仕事であり、全国の路線バス運転士が共通に行っている通常業務であって、山形交通特有のものではない。また、岩治の業務量や業務内容は、労働協約で定めてある日数以内の通常業務であり、他の同僚運転士と大差があるものでも過重なものでもない。岩治は、経験豊富なベテラン運転士で、バス運転業務を平穏に遂行してきたものであり、過重労働による肉体的・精神的ストレスが蓄積するような状況にはなく、その通常の業務内容自体が質的又は量的に過激なものであったということはない。

昭和五六年四月の労働協約と昭和五八年四月の労働協約とを比較すると、拘束時間(労働時間と休憩時間の合計)及び労働時間(実乗務時間と付帯労働時間の合計)は同じであるが、実乗務時間は一〇分延長され、付帯労働時間は一〇分短縮されている。また、昭和三五年と昭和五八年とを比較すると、拘束時間が二時間五〇分短縮、労働時間が五七分短縮、実乗務時間が一時間一〇分短縮されている。更に、ワンマンバス導入による乗務時間の短縮、休日増加も行っている。原告は、勤務交番表(乙三六)から昭和五七年一二月一日と昭和五八年四月一日の平均乗務時間と平均拘束時間とを比較し、労働協約改訂前後で労働強化が行われた旨主張しているが、勤務交番表は、順調にバスが運行されるであろうとする運行時間に交通事情や距離等による遅れを加味して作成されるものである。現実の勤務状況は、運行カード、運行記録計の記録用紙(タコチャート)及び勤務日報により明らかになるものであるから、原告の主張には理由がない。

原告は、労働時間(実乗務時間・付帯労働時間)に触れないで、休憩時間を含んだ拘束時間のみを分析しているが、妥当ではない。岩治の発症前一年間の労働時間は、二〇九四時間三八分であり、同僚運転士と大差ない。

(2) 岩治の班長業務について

岩治は、運転士班長としての職務も行っていたが、昭和五八年一月から六月までに開催された班長会議は三回(二月二九日、四月二一日、六月六日)であり、岩治はうち二回出席した(二月二九日欠席)。班長としての任務と責任は、班長の職にある者が当然に負っているものであって、岩治に限ったものではない。

班長は、業務に精通し、一定の条件を充たした者であれば誰でもなれるものであり、営業所長以下の者の指揮・監督を受け、山形交通の方針や指示等を班員に周知させ、班員の意見や希望を上申するという班のまとめ役・世話人的立場の者である。班長業務は、精神的に負担のかかる管理的業務ではなく、主要業務はあくまでもバスの運転である。

勤務時間外の健康寝具販売や旅行の募集活動も特に岩治だけが行ったものではなく、山形交通の全社員が行ったものである。昭和五九年三月一日付山形労働基準局における山形労働者災害補償保険審査官が行った聴取のなかでも、原告は、この点について何ら述べておらず、このことからも寝具販売や旅行の募集活動が大変であったという認識がなかったことがうかがわれる。

(3) 岩治の昭和五八年一月から六月までの一か月平均勤務状況は、他の同僚と差異がなく、公休日出勤についても労働協約の規定の範囲内である。

(4) 岩治の発症前一か月(昭和五八年六月一日から災害当日まで)の暦日数は三三日間で、うち勤務日数が二七日間、公休・年休・力休(隔週休暇)が六日間である。勤務日数のうち、貸切運転業務は九日間であり、その他の勤務日は定期乗合運転業務に従事している。定期運転業務の実乗務時間(山形交通における昭和五八年四月一日施行労働協約中の勤務協定一二条、二〇条)が四時間三〇分から六時間、貸切運転業務の拘束時間(右勤務協定一六条、二四条。なお、実乗務時間の記録はない。)が一六時間から九時間一五分である。六月二五日、二六日は連続休日であり、六月二七日は運転業務についていない。これらの過去一か月余の労働実態からみれば、その労働時間(右勤務協定一五条、二二条)・休日等において、特に業務が過重であるとは認められず、過度の精神的・肉体的負担があったとはいえない。

(5) 発症前七日間についても、昭和五八年六月二五日及び二六日は、二日連続して休んでおり、労働協約で定めた連続出勤は一三日以内である。六月二七日は、予備日で、バス運転業務には従事していない。

(6) 岩治の災害当日の勤務状態

災害当日、岩治は、午前五時一〇分ころ、携帯品・健康状態・車両の状態について異常のない旨点呼を受け、智子と共に事業場を元気に出発した。乗務したバスは、山形二二あ二八九、昭和四九年式、同年三月購入のものであった。

岩治は、笹谷街道を経由して東北自動車高速道路に入り、午前六時四〇分から一〇分間、泉駐車場に駐車して休憩し、コーヒーを飲んだ。災害当日の天候は、別紙四記載のとおりであり、雨降りで、智子は寒く感じていたが、岩治は、夏の制服で、夏用のランニングシャツと半袖の上着を着用し、運転席右側の窓を三〇センチメートル位開けて運転していた。岩治は、運転中、智子に自分の子供の話をしたり、智子の子供の話を聞いたりしていた。

岩治は、泉駐車場を午前六時五〇分ころ出発したが、矢本空港付近で交通事故の現場に遭遇し、午前七時三〇分から八時ころまで停車していた。この間、岩治は、事故現場を見に行き、すぐバスに戻ってきた。その後、智子も現場を見に行った。事故は、大型トラックと普通乗用車の正面衝突で、乗用車の屋根の部分が取り外されており、その上に毛布が掛けられ、真っ白なシートカバーに少し血がついているのが見えたが、智子は、あまり動揺することもなく、「ああ事故だなあ」という感じを持った程度であった。

岩治は、午前八時ころ交通事故現場を出発した。「おとこざわ呉服店」前には午前八時四〇分に到着し、乗客四〇名を乗せて予定通り午前九時に出発した。途中、宮城パーキングエリアでトイレ休憩し、午前一一時にそこを出発した。乗客は全員女性で、バスの中では民謡・歌謡曲などを歌い、岩治も曲にあわせて歌を口ずさんでいた。定義館には午前一一時四〇分ころ到着した。

以上のような災害当日の勤務状態・気象状態からみても、特に岩治に肉体的・精神的負担があったとは認められない。すなわち、岩治は、出発前の点呼時も運転途中も特に変わった様子はなく、途中交通事故現場に遭遇した後も特に様子が変わることはなかった。「おとこざわ呉服店」を出発した後も岩治の状態に異常はなく、客の歌う歌にあわせて小声で口ずさむなどしており、運行時間も予定どおりであった。また、岩治は、昭和四三年四月一日に貸切バス運転の認定資格を取得して以来バス運転をしており、優良表彰も受けているベテラン運転士であるから、本件と同様の早朝の出発は、特異な出来事とは考えにくく、当該事故もショックを受けるほどのものではなかった。原告は、岩治がこの事故で被害者の死体を見たと主張するが、推論にすぎず、事故の目撃から発症に至るまで約四時間経過しており、心理的ショックを受けたとしても十分解消されていたと考えられるから、本件発症との関係はない。事故による交通渋滞も、運転業務に従事するものにとって特異な出来事とはいえず、必要以上に精神的負担を強いるものであるとはいえない。更に、災害当日の運転は、予定全走行距離三四〇キロメートルであり、このうち、客が乗車していない回送距離が一四六キロメートルであったから、運転士にとって特別負担の大きい業務であったとはいえない。岩治の運転していたバスにはパワーステアリングが付いていなかったが、岩治がベテラン運転士であることや、他のバス運転士もこのような運転を同様に行っていたことからすれば、このことが精神的・肉体的負担を伴う要因とはならない。

第三  争点に対する判断

一  山形交通における労働状況及び班長業務等について

1  山形交通における労働協約の改正(争いがない。)

山形交通においては、昭和五八年四月一日から新しい労働協約が施行された。この結果、実乗務時間(原告は、所定乗務時間と表現している。)が、五時間一〇分から五時間二〇分に、付帯労働時間が一時間五三分から一時間四三分に変更された。

2  山形交通における班制度、班長会議及び班会議について

山形交通における班制度は、会社と従業員の意思疎通の円滑化を進めて職場の活性化や従業員相互間の融和をはかることを目的として昭和四三年に制定されたものであるが(乙九)、その後班制度の硬直化や活動の機能低下が明白になりつつあるとして、昭和五八年三月の幹部会における総務部の重点方針のひとつとして、乗務員班制度の効果的な運営をはかることがあげられ、組織を活性化し、経営参加意識を高め、下意上達の徹底により、班制度を生き生きとした組織によみがえらせようとして、その改正が行われた(甲一一、甲二二。なお、甲一一と甲二二とは同じ山形交通の社報「やまこう」昭和五八年四月号であるが、記録に綴られている証拠の写しの頁に異なる部分がある。)。

班長は、営業係長・運行主任の指揮監督を受け、その他関係係長・主任・係員の指示と協力の下に、月一回以上班会議を開き、会社の方針・指示・班長会議等の結果を班員に周知報告すると共に、班員の意見・希望・提案等を上申すること、班員に対して様々な指導助言をすること、会社班長会議に出席すること等の任務を負っていた(乙九)。山形交通は、班長に対し、班員の出勤率、個人別乗合収入、無事故走行距離等の実績に関する資料を参考として渡しており、班員への指導助言の資料としていた(甲一〇の一ないし三、証人荒木二雄、証人高橋廣雄)。

班長会議は月に一度開かれ、会社の指示が班長に伝えられる。午後二時頃から午後五時頃までに行われることが多く、これは勤務時間には入っていない(甲八、甲九、甲一六、乙八)。

班会議は、会社からの指示を班員に伝える場であり、毎月一回開かなければならないことになっていた。午後二時半ないし三時ころから一時間半くらい行われることが多く、これも勤務時間には入っていない。班会議の結果は毎月一回所定の班長会議報告書で報告することになっていた(甲一六、証人荒木)。

3  山形交通の経営改善と班単位での取り組み

(一) 山形交通は、昭和五六年度(昭和五七年三月決算)において、創業以来初の大幅赤字を計上し、全社をあげて経営改善に取り組む姿勢をみせていた(甲三八ないし四九。なお、甲一二と甲四九は同じ山形交通の社報だが、裁判所の記録中に綴られている頁に差異がある。)。

(二) 昭和五七年七月、山形交通の関連会社であった株式会社両羽会館が改称され、株式会社山形健康サービスが設立された。同社は、同年八月から営業を開始し、同年八月及び九月に健康寝具「キャップロール」の販売活動キャンペーンが行われた(甲一一、甲四〇、甲四一、甲四二)。このときの販売実績は、個人ベストテン、団体成績などとして、山形交通社報やまこう昭和五七年一二月号にも掲載されており(甲四三)、班毎の販売順位の棒グラフが運転手控室に貼り出されたりした(甲二四、証人高橋)。しかし、このときの売上げは当初の目的には達せず(甲四二)、その後もインナーキャンペーン等が行われたが、あまり成果が上がらず(甲四三、甲四四)、山形健康サービスの業績は、思うように伸びなかった。そこで、グループ全体としてこれを支援することとなり、昭和五八年八月からは、「キャップロール拡販キャンペーン」が実施され、一人一本の販売を目標として積極的な活動が展開された(甲一二)。この販売では、班毎の販売順位が示されるなどしており、班長は、班員に売上げ増加のための努力を促すと共に、班員に指導するため、自ら進んで買い手を探す努力をしたり、自分で買ったりしなければならなかった。販売とは、購入客の紹介を意味し、勤務時間外において行われた(甲一六、甲二四)。

(三) 山交ファミリー旅行は、定期バス収入の落ち込みの補充や貸切バスのオフ対策等を目的として行われてきたが、山形交通が赤字を計上してからは、難局に直面したバス事業の増収増益策のひとつとして従業員全員による集客が期待されるところとなった(甲四三ないし四六)。

昭和五八年一月には、山交ファミリー旅行の募集活動があり、班長会議において、班毎の販売成績が示された。この募集も、勤務時間外に知人等に電話するなどして行われた(甲一六、甲二四)。この販売実績も一覧表として、社報やまこう昭和五八年五月号に掲載されている(甲四七)。また、昭和五八年六月六日の班長会議においては、ファミリー旅行の表彰につき、山形営業所が最下位であり、全員参加で最下位を脱出するよう協力するようにという要請があった(甲九、証人荒木)。

(四) 定期バスの赤字体質脱却及び不振挽回のため、バス回数券の拡販運動も行われ、昭和五七年は、六月と七月に、昭和五八年は、七月と八月にそれぞれ実施された(甲一二、甲四一、甲四八。甲四九)。昭和五八年六月六日の班長会議においては、回数券の車内販売について上位三班を、窓口販売について目標達成率五位までを、それぞれ表彰するという提案がされており(甲九、証人荒木)、班単位での活動が期待されていた(甲一二、甲四九)。このような販売活動は、労働時間外に行われた(証人荒木、証人高橋)。

二  岩治の災害当日までの労働状況

1  発症前一か月(それ以前のものも含む)の勤務状況

(一) 岩治の出社及び退社時刻について

別表二は、原告の平成六年九月一三日付準備書面添付の別紙勤務実態表であり、勤務日報及び勤務交番表に基づき、昭和五八年五月三一日から災害当日までの岩治の実質的な始業時間と終業時間(その計算方法からして、労働協約上の拘束時間ともほぼ一致するものと考えられるが、労働協約上の拘束時間は、乗合バスと貸切バスとで異なり、また、後記のとおり、拘束時間については厳密に認定するものではない。)とを控え目に算出したものであるが、原告が始業時間とする時刻を岩治の出社時刻として、また、同じく終業時間とする時刻を岩治の退社時刻として、少なくとも別紙二記載のとおりの範囲(但し、昭和五八年六月一三日の出社時刻は一三時三三分であり、同年七月三日の出社時刻は後記のとおり午前四時三〇分ころである。)で認めることができる(甲七の一ないし二九、甲二七、甲二八、甲三六の二八、乙三六、証人高橋、原告本人)。もっとも、右勤務実態表では、昭和五八年六月二〇日の終業時間は、勤務交番表をもとに計算されているが、甲第七号証の一八及び乙第三六号証によると、同日の最終ルートは回送で終わっており、証人高橋の証言によれば、回送の場合には勤務交番表記載の時刻より早く到着する場合もあるというのであるから、同日の退社時刻は、別紙二の記載時刻より多少早い可能性がある。その他、原告本人によれば、岩治は、発車の一時間前には出社していたとのことであり、また、帰着時間後のバスの点検・清掃につき、運転士佐々木弘は、だいたい一時間位かかるが、長引くときもあるとし(乙二四)、証人高橋も、貸切の場合は車内が相当汚れているので、点検・清掃に一時間以上は十分かかるといっていることからすれば、岩治の出社及び退社時刻にはなお変動の余地がありうるが、少なくとも別紙二記載の時刻における出社及び退社が認められるというべきである。

なお、勤務交番表及び運行記録計の記録用紙(タコチャート)との比較において、勤務日報(甲七の一ないし二九は、昭和五八年六月一日から同年七月二日までの勤務日報であり、甲二八は、災害当日の勤務日報である。)の正確性が問題となっている。すなわち、乙第三六号証の勤務交番表と対照すると、第一に、勤務日報には、定期バス運行の場合における営業所から出発地及び終着地から営業所までの回送部分については記載がなく、第二に、勤務日報には、勤務交番表記載の時刻より早い着時間の記載があるものがあるところ、証人高橋によれば、回送運転のため停留所への停止や客の乗車がない場合は、勤務交番表記載の時刻より早く目的地に到着することもあるが、そのような場合を除いては予定着時間よりも早く到着するということはバス運転手としてありえない(さもないと予定着時間に停留所に来る客を置いて行ってしまうことになる)ので、このような勤務交番表記載の時間より早い到着時間の勤務日報への記載はおかしいということになり、第三に、勤務日報には、最終の着時間からみてまだ終業点検中と思われる時間に最終点呼が行われているような記載がみられる。逆に、乙第四七号証の一ないし四のタコチャートの記載から読み取れる着時間と、対応する日の勤務日報に記載された着時間は一致するようにみえ、この部分については勤務日報の記載が正確であるようにもみえる。もっとも、当該タコチャートから読み取れるバスの始動時間と、勤務日報記載の発時間とが一致しない部分もあり、タコチャートの装着によるずれがある可能性もないではない。このように、勤務日報の記載時刻の正確性については多少の問題がないわけではないが、厳密に拘束時間を認定するのであればともかく、岩治の出社時刻及び退社時刻のおおまかな傾向を把握するうえでは特に問題視する必要はないと考えられ、右の点は、別紙二記載のとおり岩治の出社時刻と退社時刻を認定する妨げにはならないというべきである。

(二) 同僚運転士との労働時間の比較

岩治、笠原莞爾、佐々木弘の昭和五七年七月から昭和五八年六月までの労働日数、拘束時間、労働時間の「総括表」によると、順次、(1)拘束時間の月平均は、それぞれ251.2時間、239.3時間、234.5時間、労働時間の月平均は、それぞれ174.5時間、173.7時間、169.3時間であり、(2)拘束時間の日数平均は、それぞれ九時間五四分、九時間三八分、九時間三二分、労働時間の日数平均は、それぞれ六時間五三分、六時間五九分、六時間五三分である(乙三四)。労働時間の日数平均を除き、岩治の拘束時間と労働時間は、他の二人を上回っている。

右三人の昭和五八年一月から同年六月までの一か月平均労働時間を比較すると、岩治の労働時間は、他の二人に比べて実労働日が0.4ないし0.9日、休日労働が0.1ないし0.3日、労働時間が6.6ないし10.8時間多く、公休休暇が0.3ないし0.8日少なくなっている(乙二)。

(三) 残業時間について

昭和五八年四月及び五月の山形交通清住営業所従業員一五九名の残業時間表は、不鮮明な部分もあるが、これによると、両月の残業時間がいずれも二〇時間を超えているのは、岩治を含めて八人であり、両月の残業時間の合計をみると、最も多い者(林部善孝)が64.5時間、次が岩治の59.5時間であり、次が(石岡隆)五七時間、次が(石岡庄作)五五時間と続いている(甲一三)。

昭和五八年六月稼働山形営業所残業一覧によると、岩治の時間外稼働は、一一時間であり(乙四六)、他の従業員と比較して多いとはいえない。

(四) 岩治の昭和五八年六月からの走行キロメートル

岩治のバス運転による昭和五八年六月からの走行キロメートルをみると、同月初旬に一日一〇〇キロメートルを超える日が連続しており、同月一日から一〇日までの勤務のうち一〇〇キロメートルを超えていない日は二日間だけである。また、貸切乗務のときには、一日二〇〇ないし三〇〇キロメートルを超える走行キロメートルのときもある。

同月中旬以降、二四日までは一〇〇キロメートルを超える走行をした日がなく、二五日、二六日は休みのため、二七日は予備日のため、いずれも走行はしていないが、二八日以降、一日の走行キロメートルが増加し、二八日が102.1、二九日が101.0、三〇日が93.0、七月一日が100.3、二日が168.4という走行キロメートルとなっている(乙七)。

2  本件発症前一週間の勤務状況

本件発症前一週間(昭和五八年六月二七日から七月二日まで)の岩治の出社及び退社時刻は、別紙二記載のとおりである(甲七の二三ないし二九、甲二七、乙三六)。

岩治は、昭和五八年六月二七日から災害当日まで七日間連続して勤務している(甲七の二三ないし二九、甲二八)。六月二七日から災害前日までの六日間のうち、午後からの勤務は二七日と三〇日であり、それ以外の四日間は、いずれも午前五時から午前七時までの間に出社するような状況であったが(甲七の二三ないし二九、原告本人)、勤務時間終了後も、キャップロールや回数券販売等をすることがあったため、帰宅は、七月一日までの間、毎日午後九時から午後一〇時過ぎだった(原告本人)。

三  岩治の災害当日前後の状況

1  災害当日は日曜日であり(公知の事実である。)、岩治にとっても休日の予定であったが(争いがない。)、岩治は、災害前日に翌日の勤務を命じられた(乙一七、原告本人)。災害前日の岩治の退社時刻は、大体一三時三〇分以降である(甲七の二九)が、岩治は、翌日の貸切バス乗務の打ち合せをしたと推測され(甲二七)、帰宅は、午後五時半ころであった(原告本人)。帰宅後、岩治は、原告に対し、急に仙台へぽんこつの定期バスで行けと言われたと興奮ぎみに語った(原告本人)。岩治は、夕食後、客先へ電話をし、夜遅くまで地図等によって初めて通過する予定の道路を確認する作業をしていた(甲一九、乙一七、証人智子、原告本人)。この間、岩治は、原告に対し、もともと岩治に指定されている貸切バスがある(原告本人、証人智子)のに、定期バスのぽんこつで行かなければならないということについて愚痴っぽく話をしていた(原告本人)。岩治は、原告に対し、翌日午前四時前には出るから遅くても三時半ころには起こしてくれと言い、災害前日の午後一一時半ころ寝た(原告本人)。

2  災害当日、岩治は、午前三時半から四時ころに起床した(乙一六、原告本人)。この日、岩治は、午前五時に点呼を受け、午前五時〇五分に出発しており(甲二八)、労働協約(勤務協定)上、始発前三〇分前には出社しなければならないこと(甲四、乙三三、証人荒木)、点呼の時点で智子に対し、食堂で食事を済ませたと言っていること(乙四)、岩治の家から会社まで車で一〇分程度であり、当日は午前四時前後に家を出たこと(原告本人)をあわせ考えれば、岩治は、遅くとも午前四時三〇分ころには出社していたということができる。この時点では岩治に変わった様子はなかった(乙四)。

3  岩治は、バスガイドの智子と災害当日の午前五時〇五分ころ山形営業所を出発し、パワーステアリング機能装置の付いていない路線バスを代用した定期バスを運転し、笹谷街道を経由して東北自動車高速道路を走行した(争いがない。但し、出発時刻については甲二八による。)。通常は、貸切に定期バスを使用しないが、突発的な場合で、貸切バス専用車のすべてが稼働しているような場合には、定期バスを流用することがあった(証人荒木、証人高橋)。このバスは、ハンドルが切りにくい、チェンジレバーも入りにくい、馬力も弱い、運転しにくい、という車であり(証人高橋)、智子もこのバスで高速道路を走るのは大変だなと思っていた(証人智子)。

4  走行中、岩治は、智子と子供の話をしたり、鼻歌を歌ったりしており、変わった様子はなかった(乙四)。岩治と智子は、途中泉パーキングでトイレ休憩し、暖かいコーヒーを飲んだ(乙四、乙五、証人智子)。災害当日午前中の気象状況は、別紙四記載のとおりであり、気温は、摂氏12.7度ないし14.3度であった(争いがない。)。智子は、とても寒く感じていたが、岩治は、半袖で窓を開けて走ってあまり寒さを感じていない様子であった(乙四、乙五、証人智子)。しかし、泉パーキングで休憩後バスに戻った時、岩治は、バス内で暖房をかけた(乙四、証人智子)。

5  岩治と智子は、途中、宮城県桃生郡矢本町矢本字穴尻三七一番地の三先の国道四五号線の矢本空港付近で交通事故発生直後の事故現場を目撃した(争いがない。)。

右事故は、災害当日、岩治運転のバスが通過する直前、右国道で午前七時〇二分ころに起きたものであり、後退しながら国道を横断しようとした普通乗用自動車に、国道を進行中の普通乗用自動車が衝突し、同車が更に対向車と衝突し、乗車していた二人の若い女性が即死し、二人が怪我をしたというものであった(甲一の一ないし三)。警察が事故現場に到着した時、既に救急隊が救出作業をしており、国道を進行していた普通乗用自動車の運転手は、病院に収容されていたが、同車の同乗者二名は即死の状態で、助手席と助手席後部に横たわっていた(甲一の三)。救急出動記録によると、事故の覚知が午前七時〇三分、出動が七時〇四分、事故現場到着が七時〇九分、現場処置所要時間が二八分、救急処置の完了が午前七時三七分であった(争いがない。)。即死した二名は、救急車では搬送されていなかった(争いがない。)。

岩治は、事故現場の状況をバスを降りて見に行った(争いがない。)。智子によれば、岩治が事故の様子を見にバスを降りて行ったのは、午前七時三〇分から四〇分にかけてである(乙五)。岩治が戻ってから四、五分たって、智子が事故現場を見に行こうとすると、岩治は、「見に行くなあ」あるいは「行くなは」と言った(乙二〇、証人智子)。しかし、智子は、事故現場を見に行き、毛布か何かがかけられた事故車や、血のついたシートカバーなどを見たものの、特にショックは受けなかった(証人智子)。

原告は、岩治が死体を見たとし、これが岩治に大きなショックを与えたと主張する。確かに、救急出動記録と智子の証言に現われた時間を前提とすると、岩治が事故現場を見に行った時点で、事故の死亡者が車の中にまだ残っていた可能性は高いと考えられるが、岩治が死体を見たということまでは認定することができないし、事故現場で死体が人目に触れるような形で放置されることは通常考えられないから、岩治が死体を見たという推認をすることもできない。しかし、前記のとおり、岩治は、事故現場に行こうとする智子に「見に行くなあ」等と言っていることが認められ、このことから事故現場を智子に見せたくないという岩治の配慮が窺われるから、岩治が事故現場の状況をかなり重大なものと感じていたことを否定し去ることはできない。また、智子は、事故現場を見て特にショックは受けなかったようであるが、智子が血のついたシートカバーを見ているのであるから、岩治が事故現場を見に行ったときにもこれを目撃した可能性を否定できず、もしそうであるなら、岩治が血を見るのを嫌うこと(原告本人)からして、相当のショックを受けたものと考えられる。更に、岩治は、智子が戻り、バスが動き始めてから「人間の命というのははかないね」と言ったが(証人智子)、岩治が「人の命」について言及していることからすると、岩治が右交通事故を人の死傷に関わるものと認識していた可能性も相当に強いというべきである。

なお、智子は、岩治が事故現場を目撃した前後で岩治の様子には特に外観上変わったところはなかったという(乙二〇、証人智子)。しかし、外観上特に変わった様子がなかったことから、岩治の受けたショックに関する前記の推認ないし可能性を直ちに否定することはできないというべきである。

6  岩治と智子は、交通事故によって災害当日の午前七時三〇分ころから午前八時ころまで、約二〇ないし三〇分の通行止めにあったので(乙二〇、証人智子)、遅れては乗客に申し訳ない、道路を間違わないようにしなければならないと考えていた(証人智子)。

交通事故現場から先の進路は、曲がっていて道幅も狭く、似たような道がたくさんある迷いやすい道であり、乗客を乗せる「おとこざわ呉服店」に近い所、特に北上川に沿う場所付近からは、細い道やカーブが多いが(甲二七、証人高橋)、岩治は、スピードを上げて走行し(甲二九、甲三二、乙三九、証人高橋)、「おとこざわ呉服店」に午前八時四〇分ころ到着した(争いがない。)。

7  岩治は、同日午前九時ころ、客を乗車させて同店を出発した(争いがない。)。四〇名程の乗客を乗せていたが、客はほとんどが女性であり、岩治は、客の歌う歌に合わせて小さな声で口ずさむなどし、特に変わった様子はなく、予定どおり運行していた(乙五、証人智子)。

定義温泉まで行く途中は高速道路を走行するが、この間は登り下り、カーブが多いところである(証人高橋)。途中、交通事故現場も再び通った可能性が高い(証人高橋)。更に、関山街道から外れて定義山に行く道路は、曲がりが多く、道路幅も狭く、見通しが悪く、路肩も弱い(証人高橋)。

8  岩治は、同日午前一一時四〇分ころ、定義温泉内の「定義館」に到着し、客を降車させ、智子の誘導でバスの後進作業に入った(争いがない。)。智子は、バスの後進途中でMGM(タイヤのエアー圧力が一定限度になると自動的に後車輪を制動する装置)が作動したことに気付き、運転席の前側部に行って岩治に声をかけたところ、岩治は、目を開けたまま、肩で息をつき、意識がないような状態であったので(乙四、証人智子)、救急車の出動要請をし、救急車は一二時一七分、現地に到着した(争いがない。)。

岩治は、救急車で西仙台病院に運ばれ、一二時四六分に収容されたが、その後、仙台市立病院に転送され、一四時〇三分収容された(争いがない。)。岩治は、救急車の中でも「お客さんはどうか。智ちゃん、わるいっけな」などと話していた。また、救急隊員の観察中、うわごとのように「疲れた」と言った(乙一三)。仙台市立病院における岩治の初診時の状態は、胸部苦痛、全身倦怠感著明、チアノーゼ、冷汗がみられるというものであり、ショック状態であった(争いがない。)。

岩治は、昭和五八年七月四日午前零時〇三分死亡した(争いがない。)。

9  当日の岩治の貸切バス運行計画は、全走行キロメートルが三四〇キロメートル、うち回送車運転が一四六キロメートルであった(乙二)。これは、労働協約三〇条の走行基準(一人一日三五〇キロメートル)の範囲内である(甲四、乙三三、乙三七)。

四  岩治の疲労の訴え等について

岩治は、昭和五八年四月ないし五月ころから疲れを訴えるようになり、原告も山形交通の運転士の妻たち(原告の元の同僚や近所づきあいをしていた人たち)と電話等で仕事が大変になってきたなどと話をするようになった(乙一六、原告本人)。岩治は、朝は一人で起きていたが、昭和五八年六月中旬ころから一人では起きられず、原告から起こしてもらうようになっていた(原告本人)。このころから寝付きもあまり良くなくなっていた(原告本人)。

五  岩治の性格等について(甲一六、甲一七、乙一六、乙二二、乙二三、証人荒木)

岩治は、非常に真面目な努力家で、同僚からも信望があった。仕事等を頼まれれば断ることはなく、与えられた仕事はきっちりやりきり、手抜きができない性格であった。会社に対して極めて忠実であり、出社時間も早く、付帯労働も人一倍ていねいにやっており、仕事一筋という感じもあった。他人の面倒見がよく、班長として班員の面倒もよくみていた。責任感が強く、「俺が休んだら他の運転手の人に迷惑をかける。そう簡単には休めないんだ」と言うこともあった。

六  岩治の死亡と業務起因性について

以上の事実を前提とし、本件における岩治の死亡と業務起因性について検討する。

1  労災給付支給の要件である業務上の疾病があるといえるためには、当該業務と疾病の発症との間に相当因果関係があることが必要である。労働者があらかじめ有していた基礎疾病が原因となって当該疾病が発症した場合であっても、当該業務の遂行が当該労働者にとって精神的、肉体的に加重負荷となり、右基礎疾病をその自然的経過を超えて著しく増悪させて死亡時期を早める等、それが基礎疾病と共働原因となって死の結果を招いたと認められる場合には、特段の事情がない限り、相当因果関係が肯定されると解するのが相当である。

2  一般論として、道路において車両を運転する運転手が相応の精神的緊張を強いられることは、経験則上容易に認められるところである。そして、大型車両に多数の乗客を乗せて運転するバス運転手の場合、多数の乗客の生命身体の安全に配慮しながら大型車両を操縦し、また、定期路線を時間通り走行したり、目的地に時間通り到着したりするといった時間遵守の配慮も要求されるから、それに応じて精神的緊張も高まるということができる、

バスの運転に伴うこのような精神的緊張は、岩治に限らず他の同僚運転士についても当然に生じるはずであるが、本件については更に次のような点を指摘することができる。

第一に、岩治は、災害前日、翌日の貸切バス運転業務を命じられ、予定していた休日を返上して、不案内な土地を走行することになったという点である。岩治は、災害前日の夜、客先へ電話したり、地図を確認したりして、コースを頭に入れていたが、急に勤務を命じられたことと必ずしも性能の良くない定期バスを割り当てられたことへの不満は持っていた。しかし、岩治の性格や、過去に岩治が作成した道路図面等(甲三三の一ないし四)からすれば、コースの検討は長時間にわたって念入りに行われたものと推測される。

第二に、岩治は、災害当日早朝から勤務についたが、睡眠時間は、四時間ないし五時間程度であり、疲労回復には不十分であったという点である。災害当日の岩治の出社時刻は、遅くとも午前四時三〇分ころであり、昭和五八年五月三一日以降、二番目に早い時刻である。同年六月二七日から災害当日まで七日間連続の勤務であったことも考慮すれば、災害当日の時点で相当程度の疲労が蓄積していたと推認することができる。

第三に、岩治は、途中、交通事故現場を見たという点である。右事故は、二人の女性が即死するという悲惨なものであったが、当時、事故現場で、岩治がどのような状況を目撃したかは不明であり、死体を見たという認定もできないが、前記のとおり事故現場の状況を見てかなりのショックを受けた可能性は否定できない。運転業務に従事している者は、一般の運転手よりも交通事故を目にする機会が多いと思われるが、交通事故が異常な事態であることに変わりはなく、事故に慣れるということも容易に想像し難いから、多くの乗客の人命を預かるバス運転士にとって、交通事故の目撃による緊張度の高まりは、一般の運転手と比較しても決して小さくはないと思われる。また、このような緊張度の高まりは、運転経験豊富なベテラン運転士であっても軽減されることはないであろうし、経験を積んでいるからこそ、なお精神的に緊張し、より慎重・安全な運転を心がけようとするとも考えられる。なお、岩治は、乗客を乗せて定義温泉へ向かう途中、再び事故現場を通った可能性も高いが、そうであれば、事故現場の状況がよみがえったということも十分考えられる。

第四に、岩治は、交通事故によって足止めされ、到着時間を気にしたと思われる点である。足止め時間によっては、目的地への到着が遅れることもあり、また、先方へ連絡する必要も生じ、それが土地勘のない所であれば、真面目な性格の岩治にとって、相当のストレスになったものと考えられる。

第五に、災害当日は、定期バス用の車両が貸切バスとして利用されたという点である。当該バスの外観は、まさに定期バスで、いわゆる観光バスとは異なっている(甲一九、証人高橋)。岩治の性格からすれば、このようなバスで乗客に申し訳ないという気持ちが起きたと考えても不自然ではなく、そのため運転士として乗客に気をつかったということも十分考えられる。また、このバス自体の性能が悪く、運転しづらかったと思われるほか、当日のコースには高速道路の走行、カーブや細い道の走行が多かったため、油もれ、水もれ、ブレーキの効き具合なども気にかかっていたと推測される。

第六に、災害当日の気温が七月にしては低く、半袖シャツでは寒さを感じたと思われる点である。

3  災害前日までの勤務状況については、次のような点を指摘できる。

(一) 岩治運転車両の昭和五八年六月の走行キロメートルをみると、初旬に一日一〇〇キロメートルを超える日が連続し、中旬から二四日までは一〇〇キロメートルを超える日はなく、二八日以降災害前日までは、三〇日を除き一〇〇キロメートルを超えている。特に災害前日は、一六八キロメートルもの走行キロメートルである。

本件発症前一週間(昭和五八年六月二七日から七月二日)は、七日間連続勤務であり、このうち午後からの勤務は、二七日と三〇日であって、それ以外の四日間は、いずれも午前五時から午前七時までの間に出社していた。また、この間の帰宅時間は、キャップロール等の販売活動などもあり、午後九時から午後一〇時過ぎであることが多かった。

右の走行キロメートルは、勤務協定の範囲内であり、勤務交番表に照らしても著しく過大なものではないと思われるが、他の運転士との比較において過大なものであったか否かは明らかではない。ただ、岩治の本件発症前一週間の睡眠時間は比較的短く、災害当日も四時間から五時間程度の睡眠時間で勤務に出たことからすれば、本件発症前一週間の勤務による疲労は、災害当日においても残っていたものと考えるのが相当である。

(二) 岩治は、山形交通内で、班長としても熱心に活動していたが、具体的な数値等の形で表面に現れない班長業務の精神的負担も決して軽視できないものというべきである。すなわち、山形交通は、経営改善のために、班制度を通じた様々な販売活動に大きな期待を寄せていたが、岩治は、班同士の競争の下、班長として班の販売実績を上げ、また、自ら率先して販売活動をしなければならない状況にあり、その負担は相当なものであったと考えられる。更に、職務の性質上、会社と班員との間で板挟み的な苦しい立場に立つことも多かったと考えられる。

4  その他、本件においては、本件発症前一か月ないしそれ以前の労働状況に関して、岩治の労働時間や残業時間の数値が他の運転士に比べて多くなっている場合も認められるが、その数値が果たしてどの程度の労働の状況ないし他の運転士との差異を示すものか、資料によってみられる数値のばらつき(例えば、残業時間について、甲一三と乙四六の数値はかなり異なる。)をどう解釈できるか、一か月程度前の労働状況に関する数値と本件発症との間の因果関係が認められるか等については、必ずしも明らかでない。

5  岩治の死因がバルサルバ洞動脈瘤の破裂によるものであることは争いがないが、原告は、心筋梗塞である旨も主張している。

確かに、仙台市立病院の死亡診断書には心筋梗塞と記載されており、証人立木楷も、強いて言うなら心筋梗塞の中隔穿孔ということがあるかもしれないと述べてはいるが、発症後診断を受けた西仙台病院や仙台市立病院における心電図等の所見に心筋梗塞を思わせるものがないこと(乙二七、証人立木)、仙台市立病院の篠田医師は、心筋梗塞ではないと述べていたのに、原告の遺族からの要請により右記載がされたことが窺われ(乙一六、原告本人)、右死亡診断書の記載は、正確なものではないと思われることから、結局、岩治の死因は、心筋梗塞によるものというよりは、むしろバルサルバ洞動脈瘤の破裂によるものと認めるのが相当である。

6  バルサルバ洞動脈瘤及びその破裂等について、菅原医師や立木医師らにより、次のような知見が示されている(甲五一の一、甲五一の五、甲五一の六、甲五二、乙一五、乙二七、証人菅原保、証人立木)。

バルサルバ洞動脈瘤の形成、進展、破裂には、血圧が大きく影響し、その大きさと破裂の時期は、その脆弱性と大動脈圧(血圧)の程度による。大動脈圧が高くなればそれだけ破裂はしやすい。バルサルバ洞動脈瘤破裂の誘因として労作が関与するという研究者が多いが、安静時に発症したという報告もあり、労作時のほうが生じやすいという断定はできない。なお、バルサルバ洞には拡張期の血圧しかかからない。

一般論として外的なストレスと精神的緊張は、血圧を上げるが、急激な精神的ストレスの場合、ごく初期は血圧が下がり、数時間程度後に収縮期血圧が上がるという学説もある。急性ストレスに対する昇圧反応は、正常血圧者に比較して高血圧者ではより大きいという報告もある。寒冷環境、騒音等の物理的環境、精神・身体への過剰負担は一時的な血圧上昇を生じさせるが、強い恐怖体験も一過性の高血圧に関係し、戦地に赴いた人や爆発事故に遭遇して血圧が上昇した人は、正常血圧レベルに戻るまで相当の時聞(一・二か月、あるいは一・二週間)がかかったという報告もある。

7 以上によれば、岩治の災害前日までの労働状況が他の運転士と比較して著しく過重であったとは必ずしも断定できないが、発症前一週間の勤務状況や班長業務の遂行状況からみて、岩治が災害当日に相当程度の疲労を残していたといえること、災害前日から当日にかけて、休日の返上、地図等による初めて通過する予定の道路の確認、睡眠不足、事故現場の目撃、運転しにくいバスの運転といった様々な精神的負担が重なったこと、災害当日は、右のようなバスで高速道路や細くカーブした不案内な道を進んで行くという負担が本件発症の地である定義温泉まで続いていたことが認められる。したがって、岩治には、バス運転の業務に従事する運転士が通常負担していると考えられる精神的緊張に加え、災害当日の業務遂行中に生じた様々な特有の精神的負担が重なり、更に、災害当日までの業務によって生じ、未だ回復されていない疲労も相まって、岩治は、災害当日発症時まで相当程度の精神的負担ないしストレスの下にあったと推測できる。このような状況において岩治の血圧が上昇し、それが持続して、岩治がもともと有していた高血圧症が悪化し、バルサルバ洞動脈瘤の更なる膨張を促して、やがてはその破裂によって、岩治を死亡するに至らしめたというべきであるから、岩治の死亡については業務起因性があり、その死亡は、業務と相当因果関係があるものと認めるのが相当である。

七  結論

よって、岩治の死亡を業務上の死亡と認めなかった本件処分は違法であり、その取消しを求める原告の請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官松本朝光 裁判官杉本正樹 裁判官伊藤敏孝)

別紙〈省略〉

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